2014年10月11日土曜日

パープの歴史 その2

1845年PAPEによるデッサン
'NOTICE SUR LES INVENTIONS ET LES PERFECTIONNEMENTS DE H.PAPE '
(Gallica.bnf.fr/Bibliothèque nationale de Franceより)
 

Jean-Henri PAPEは1789年、ドイツのSarstedに生まれ、名はJohann Heinrich PAPENといいました。
家は農家でしたが、両親は彼に家具職人の技術を身に付けるための勉強をさせました。
1809年、20歳のパープはパリに移住しました。
革命後のこの時期のフランスは、政府がフランス人のみならず外国人にも自由を与え、広く開かれていた背景があったようです。
パープは、パリに移ってから1817年に自分のピアノ工房を開くまでの間に、プレイエルの工場で5年間働くほか、イギリス旅行を何度もしてピアノ製作の勉強をしました。
ロンドンでは、Shudi(Zumpeの弟子)やBroadwoodから学び、TomkinsonやErard、Petzold、Pfeifferなどの楽器からも多くを学んだようです。

1817年にピアノ工房を始めた頃は、イギリス式のピアノを真似て製作していました。
その後イギリス式のピアノに改良を加え、自分の考えで発展させていきます。
1820年頃、フランスにはすでに30余りのピアノ製作家が存在していましたが、その後の25年間に180メーカーにまで増えるという、ピアノ製作の大変盛んな時期でした。
パープは順調に実績を伸ばしていきました。
1827年頃には75人の職人がパープの工場で働いていました(この頃プレイエル社では30人)が、1834年には150人となり(この頃にはプレイエルに抜かれていた)、1839年には200人で年間300~400台のピアノを生産するまでになりました。
また工場外にも50人の下請けを持ち、部品を作らせていたそうです。
1844年頃には、エラール、プレイエル、ヘルツといったパリの代表的なピアノメーカーたちと並び競い合っていました。

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